喫煙して不幸になる権利

その治療を受けるか受けないか、患者の自己決定権を尊重する、というのがインフォームド・コンセントの流れだ。これは、何もしないで、そのまま治さない、という希望も受け容れろということだ。これと同じ方向性でいくと、煙草を吸うから病気になっても構わない、という意向は尊重しなければならないだろう。事実、煙草で病気になることを知らずに吸っている人はいないだろう。なってもいいと思って吸っているのだ。
医療の面からすると、そういう人のためにお金も人も割かれるというのは複雑な思いだ。煙草さえ吸っていなければここまで苦労して治療しなくていいのに、とか、手術ができたのに、早く治ったのに、キズが塞がらないことはなかったのに、手術の後にこんなに痰を吸引しなくて済んだのに、と思うことは避けられない。特に、5時間かけてした手術の効果を+1とした時、喫煙による悪影響が−10くらいになるようなものの時、自己決定とか患者の意向とかを全く抜きにしても、ただただ「虚しい」思いにとらわれる。医者も人間だ。
医者は仕事を「患者のために」やっているという理念がある。自分のやりたいこととか、プライベートを「犠牲に」する理由は、それが患者のためであるからだ。一方「自分のために」そういうことをやっているという側面もあり、そうして仕事している自分に満足することも、大っぴらには言えないがあるように思う。他人のためだけにあそこまで頑張れるとは思わない。
そうすると、他人が喫煙するのは他人の権利だ、というのも確かにわかるのだが、同時に「他人の喫煙が自分を否定する」構図も生まれてくる。患者を治すことを拠り所にする人にとって、「治さなくていいよ」と言われることは、結構な自己否定だ。私が、特に大事な人に対して禁煙を厳しく求める理由は、実は自分を守るためかもしれないと思うのだった。
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